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1969年・・・アンドレ・カンドレ(井上陽水)がデビュー。 ラジオから奇妙な声で流れてきた「さびしさのつれづれに~~♪」(心もよう)。 あれよあれよという間に、ヒットチャートを上昇。 歌謡曲をなぎ倒し、1位に。 「心もよう」が入っているアルバム「氷の世界」は日本のレコード史上、初の「ミリオンセラー」(100万枚売上)になった。 フォークのジャンルじゃなくて、歌謡曲も演歌も含めて、初めての「ミリオンセラー」なのだ。 当時のフォークソングの過熱ぶりが分かる。 ここに来て、レコード会社は「フォークはカネになる」とばかりに、有象無象のフォークシンガーを輩出した。
1973年発売のアルバム『氷の世界』は、アルバムとして日本市場で初のミリオンセラーを記録する。
その後も1984年のアルバム『9.5カラット』が売り上げ100万枚、1999年のベストアルバム『GOLDEN BEST』は売り上げ200万枚を達成するなど、長いキャリアを通して高い人気を維持し、日本ポピュラーミュージック界の最重要人物の一人として活躍し続けている。
コンサートやテレビ番組の中でしばしばビートルズの作品を歌うほか、ビートルズの影響は楽曲の随所に見られる。 「石川セリ」も僕は大好きだ。
●井上陽水「傘がない」 なんて、暗い曲なんだ、というのが、僕の最初の印象だった。 若者の「刹那主義」をよく反映している。
独特な世界を叙情的に歌い、歌唱力がムチャクチャあるフォークシンガーだな、と思った。 この頃から、自分で作詞、作曲し、演奏して歌まで歌う、というフォークシンガーのスタイルに対する「シンガー・ソング・ライター」というネーミングも定着してきた。 で、この「心もよう」に戻るけれど、中学2年の時に、1学年上の女子生徒からバレンタインにチョコとマフラーと、この「心もよう」の歌詞が書かれたラブレターをもらった。 僕にも、そういう時代があった、というだけの切ない思い出なのですが・・・・・・。
●井上陽水「氷の世界」
聴けば聴くほと、不思議な歌詞だ。 「りんご売り」なって聞いたことある? でも、調子のいいロック調の大好きな音楽だ。 聴いていると元気が出てくるぞ。
少年ドラマシリーズの中でも屈指の名作『つぶやき岩の秘密』の主題歌。 いや~~~!懐かしいな。中学校の同級生たちの顔まで浮かんでくるよ。
井上陽水のその他の作品は「特集」をご覧ください(まだ、そのページを作ってないけれど、作成予定。)
■■日本のフォークソングの歴史、日本のフォークソングの名曲、昭和のフォーク、日本のフォークソングの名作■■ PR |
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RCサクセションのファンに怒られるかもしれないけれど、僕にとってRCサクセションは「フォークグループ」だ。 初期のRCサクセションには「三浦友和」が入っていた。 忌野清志郎がよく言っていた自慢話に「三浦友和にギターを教えたのは俺だ」というのがある。 僕の今の住まいの近くに「たまらん坂」があり、そこの石垣に忌野清志郎の落書きがある。
「多摩蘭坂」という曲も作っている。
RCサクセション(アールシーサクセション、RC SUCCESSION)は、日本のロックバンド。 忌野清志郎をフロントマンとし、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど日本語ロックの成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。
実際、RCサクセション (以下、特段の理由がない限り「RC」と略す) に影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。
3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。 1stアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。 1978年、春日がメンバーとして参加し、フォーク形態からロック / R&B形態へとバージョンアップされる (当時は、その衝撃の大きさからマスコミでは「パンク・ロック」と評されることが多かった)。 さらに、新井田、仲井戸が正式に加入し、RCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成する。 忌野は髪を短く切って逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。
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この独特な歌声と素朴な歌詞がラジオから流れてきて、僕は驚いた。 なんて素敵な奴なんだろう、と。
たまたま、僕が通っていた新潟県立柏崎高校の美術に先生は女性なのだが、ヘビースモーカーで、よくタバコを吸いながら、絵の採点をしていたので、この「僕の好きな先生」と重なった思いでがある。
1978年当時だ。
泉谷は当時のRCのことを「RCは凄まじかったね。アコースティックギターのリズム隊でありながらロックだったわけよ。ウッドベースなんかスリリングでさ、すんげえソウルフルなんだよ」と評している。
もう1曲「待ちぼうけ」を共作し、この2曲が収録された井上のアルバム『氷の世界』 (1973年) がミリオンセラーとなる。
●忌野清志郎&井上陽水「帰れない二人」
●忌野清志郎&井上陽水「待ちぼうけ」
今年になってまさに脚光を集めた「反原発」の歌がある。 作成した当時、RCサクセションは東芝EMIからレコードを出していたけれど、その親会社である東芝は「原発」を作っていた。(福島原発も東芝の製造だ。) そのため、親会社からクレームがつき、レコードが発売されなかった。 その時、新聞広告に「素晴らしすぎるレコードのため発売中止になりました」というコピーが載った。 1988年、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。 同シングルとアルバムは結局古巣キティレコード(現ユニバーサルミュージック)から発売され、RCとして初のチャート1位を獲得する。
■■日本のフォークソングの歴史、日本のフォークソングの名曲、昭和のフォーク、日本のフォークソングの名作■■ |
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菅原孝・進の二人による兄弟デュオであるビリーバンバン。 まるで高校生のフォークサークルが出てきたような清潔感あふれるフォークデュオだ。
1966年に当時青山学院大学の学生であった進が友人達四人組のバンドとして結成。翌年メンバーチェンジが行われ、孝とパーカッションの中野光雄(後のせんだみつお)の三人組のバンドとなる。 1972年、テレビドラマ『三丁目4番地』(日本テレビ)の主題歌である「さよならをするために」が約80万枚の大ヒット、その年の『第23回NHK紅白歌合戦』にも出場。 2009年、坂本冬美がビリーバンバンの「また君に恋してる」をカバーし、ヒット。 第51回日本レコード大賞では優秀作品賞を受賞。 第60回NHK紅白歌合戦の歌唱曲にも選ばれる。
●ビリーバンバン「さよならをするために」 この曲は新鮮だったなぁ。作詞は石坂浩二・・・本当に多彩な人だよね。
●ビリーバンバン「また君に恋してる」 この曲は名曲だよね。フォークと呼んでもいいし、演歌と呼んでもいい。 音楽の垣根を越えての名曲だ。
ある放送局の喫茶店で、営業に来ていた坂本冬美の声の美しさとうまさに驚き、そのまま1991年に細野晴臣、忌野清志郎とHISを結成。
菅原孝・進の二人による兄弟デュオであるビリーバンバン。 まるで高校生のフォークサークルが出てきたような清潔感あふれるフォークデュオだ。
1966年に当時青山学院大学の学生であった進が友人達四人組のバンドとして結成。翌年メンバーチェンジが行われ、孝とパーカッションの中野光雄(後のせんだみつお)の三人組のバンドとなる。 1972年、テレビドラマ『三丁目4番地』(日本テレビ)の主題歌である「さよならをするために」が約80万枚の大ヒット、その年の『第23回NHK紅白歌合戦』にも出場。 2009年、坂本冬美がビリーバンバンの「また君に恋してる」をカバーし、ヒット。 第51回日本レコード大賞では優秀作品賞を受賞。 第60回NHK紅白歌合戦の歌唱曲にも選ばれる。
●ビリーバンバン「さよならをするために」 この曲は新鮮だったなぁ。作詞は石坂浩二・・・本当に多彩な人だよね。
●ビリーバンバン「また君に恋してる」 この曲は名曲だよね。フォークと呼んでもいいし、演歌と呼んでもいい。 音楽の垣根を越えての名曲だ。
ある放送局の喫茶店で、営業に来ていた坂本冬美の声の美しさとうまさに驚き、そのまま1991年に細野晴臣、忌野清志郎とHISを結成。
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1960年代後半に、遠藤賢司、南正人、金子章平(後に音楽プロデューサーとして活躍)、真崎義博(ボロディラン)らと東京でアマチュアシンガーの集団「アゴラ」として活動。
1960年代末、京都に拠点を移す。高石ともや、岡林信康、中川五郎、早川義夫、加川良、岩井宏らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在となる。 また後に、京都のひがしのひとし、古川豪らと親交を深める。
全日本フォークジャンボリーには第1回から参加。また第2回ではURC関連の出版社にいた加川良をステージ上に引っぱり出し、フォークシンガーとしてデビューさせる (後にステージ上に引っぱり出したのは演出であり、フォークジャンボリーで加川をデビューさせるのは予定されていたことだと加川によって明かされる)。 キングから、大瀧を除くはっぴいえんど(細野晴臣、鈴木茂、松本隆)を従えた『ごあいさつ』をリリース。 この『ごあいさつ』には、高田の代表曲でシングルカットもされ、後に真心ブラザーズがカバーした「自転車にのって」が収録されている。
●高田渡「自衛隊に入ろう」を唄い、観客に衝撃を与える。
冗談のようだが、この「自衛隊に入ろう」を本物の『自衛隊』が広報・隊員募集に使おうとした。 あやうく本採用される前に「自衛隊」を皮肉った歌であることが上の人に伝わり、採用されなかった。(お互いによかったね。)
●詩人三木卓の名作である「系図」をフォークソングにした。(しんみりといい歌だ。) 本当に高田渡も「酒飲み」で、56歳という若さで亡くなった。
「自転車にのって」
●高田渡「生活の柄」
■■日本のフォークソングの歴史、日本のフォークソングの名曲、昭和のフォーク、日本のフォークソングの名作■■ |
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岡林信康は「フォークの神様」の愛称で知られる。 高石ともやに出会いギターを始める。 この岡林信康の登場で、日本のフォーク界は急激に「反戦」「反体制」につき進む。
同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビュー。 翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」「くそくらえ節」「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。 その内容から、多くの曲が放送禁止となる。 一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、労音との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3ヶ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発。 書き置きは『下痢を治しに行ってきます」。
1970年4月、コンサートに再登場、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した。 この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だった伝説のフォーク・ロックバンド『はっぴいえんど』(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂)をバックに展開し始める。
1971年の日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、表舞台から再び姿を消す。
●岡林信康&『はっぴいえんど』の「私たちの望むものは」
この頃、吉田拓郎は岡林信康にかなりライバル意識を持っていて、「私は狂っている」という歌の中で「岡林信康の歌をどう思う?」と歌ったり、ライブでは「はっぴいえんどほどいい音を出せないミニバンドをひきつれています」等と発言している。
●部落問題を背景にした歌も歌っている。「チューリップのアップリケ」
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