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RCサクセションのファンに怒られるかもしれないけれど、僕にとってRCサクセションは「フォークグループ」だ。 初期のRCサクセションには「三浦友和」が入っていた。 忌野清志郎がよく言っていた自慢話に「三浦友和にギターを教えたのは俺だ」というのがある。 僕の今の住まいの近くに「たまらん坂」があり、そこの石垣に忌野清志郎の落書きがある。
「多摩蘭坂」という曲も作っている。
RCサクセション(アールシーサクセション、RC SUCCESSION)は、日本のロックバンド。 忌野清志郎をフロントマンとし、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど日本語ロックの成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。
実際、RCサクセション (以下、特段の理由がない限り「RC」と略す) に影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。
3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。 1stアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。 1978年、春日がメンバーとして参加し、フォーク形態からロック / R&B形態へとバージョンアップされる (当時は、その衝撃の大きさからマスコミでは「パンク・ロック」と評されることが多かった)。 さらに、新井田、仲井戸が正式に加入し、RCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成する。 忌野は髪を短く切って逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。
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この独特な歌声と素朴な歌詞がラジオから流れてきて、僕は驚いた。 なんて素敵な奴なんだろう、と。
たまたま、僕が通っていた新潟県立柏崎高校の美術に先生は女性なのだが、ヘビースモーカーで、よくタバコを吸いながら、絵の採点をしていたので、この「僕の好きな先生」と重なった思いでがある。
1978年当時だ。
泉谷は当時のRCのことを「RCは凄まじかったね。アコースティックギターのリズム隊でありながらロックだったわけよ。ウッドベースなんかスリリングでさ、すんげえソウルフルなんだよ」と評している。
もう1曲「待ちぼうけ」を共作し、この2曲が収録された井上のアルバム『氷の世界』 (1973年) がミリオンセラーとなる。
●忌野清志郎&井上陽水「帰れない二人」
●忌野清志郎&井上陽水「待ちぼうけ」
今年になってまさに脚光を集めた「反原発」の歌がある。 作成した当時、RCサクセションは東芝EMIからレコードを出していたけれど、その親会社である東芝は「原発」を作っていた。(福島原発も東芝の製造だ。) そのため、親会社からクレームがつき、レコードが発売されなかった。 その時、新聞広告に「素晴らしすぎるレコードのため発売中止になりました」というコピーが載った。 1988年、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。 同シングルとアルバムは結局古巣キティレコード(現ユニバーサルミュージック)から発売され、RCとして初のチャート1位を獲得する。
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