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この3連休はフォークソングの歴史をひもといて、サイトを作っていた。 特に今日はず~~~~っと、吉田拓郎のアルバムを紹介するコンテンツを作っていた。 僕の人生は吉田拓郎に大きく変えられた。 サザンオールスターズの曲の中にも「吉田拓郎に捧げる歌」というのがあり、桑田が「おまえの歌が俺を不良にした」と言っている。 僕もまさにそうだ。 「結婚しようよ」で衝撃的な出会いをしてから、人生の節目で右に行くか左に行くか、という時に潜在意識的に吉田拓郎の歌が働きかけていたような気がする。 たとえば、こんな歌です。
吉田拓郎「知識」
吉田拓郎を知ってから、泉谷しげる、小室等、井上陽水、RCサクセション、ユーミン、中島みゆき・・・・ 人生の折々に聞いてきた音楽を残して僕たちは逝く。 それは明日かもしれない。 だからこそ、今、音楽だ。
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1.春だったね73 作詞:田口叔子 / 作曲:吉田拓郎
メジャーデビュー曲の「マークⅡ」の新バージョン。
この新しいバージョンのマークⅡを聴いた時、何故か涙が出た。
歌謡曲に溢れている「別れ話」も岡本おさみー吉田拓郎のゴールデンペアにかかると、こんなにロックになる。 「てんで、ハッピーになれないんだよ~♪」と僕も歌っていました。 ドラムの立ち上がりが素晴らしい録音だ。
歌謡曲に溢れている「恋愛もの」も岡本おさみー吉田拓郎のゴールデンペアにかかると、こんなにロックになる。
「都万」は「つま」と読む。 岡本おさみの「襟裳岬」に続く「さすらいの歌」シリーズだ。
拓郎と言えば「落陽(らくよう)」。落陽と言えば「拓郎」。 岡本おさみの「さすらいの歌」シリーズ、最高傑作。 高中正義のギターも冴えている。 拓郎のコンサートでは必ず歌われる。 「かぐや姫」の「パンダ」もカバーしている。 拓郎の曲の中でもベスト3に入る名曲で、「ノリノリ」の曲なのでファンも大好きだ。
小室等の名曲を拓郎がさりげなく歌っているところがいい。
往年の名作を新バージョンにしたもの。 こういう拓郎の曲が、僕を不良にさせた。
10.野の仏 作詞:岡本おさみ / 作曲:吉田拓郎 「かぐや姫」の「南こうせつ」君が出てくる。 いい味わいを出している歌だ。 でも、最近出した「野の仏」のほうが、拓郎も渋くなり、よりいいモノになっている。
11.晩餐 作詞:岡本おさみ / 作曲:吉田拓郎 「ヘビメタ」風の曲。 井上陽水の「傘がない」や遠藤賢司の「カレーライス」につながる曲で、日常の「事件」と自分を無関係さを唄っている。
12.ひらひら 作詞:岡本おさみ / 作曲:吉田拓郎 岡本おさみらしい、世情を風刺した佳作です。
この曲を中学3年の音楽の授業時間に、ステレオで流してもらった。 この歌が終わった時、音楽の先生(女性)は、「これ、分かるね。望みを捨てろ、と言っているけれど、本当は捨てるな、と言っているんだよね。」と感想を言っていた。 教育的指導としては適切ですが。
のちの拓郎の大作「ファミリー」に繋がるものがある。
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吉田拓郎のLP「元気です」(1972年) オリコン・シングルチャートで1位を獲得した「旅の宿」、ザ・モップスに作品提供した「たどり着いたらいつも雨降り」が収録されている。 オリコン・アルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を獲得するなど、1972年の年間第2位及び1973年の年間第4位に輝いた。 1986年にCD化された。1990年のCD選書のほか、2006年にも再リリースされている。
●吉田拓郎「春だったね」 LP「元気です」に入っていた1曲目がこれ。
僕が最初に買ったLPで、ステレオの針を落としたら、この曲が流れてきた。 早口で、唄っているのは日常のささいなこと。この曲で僕は拓郎の熱狂的なファンへの道を走ることになる。
●ボブ・ディラン「風に吹かれて」
●吉田拓郎「せんこう花火」
●吉田拓郎「加川良の手紙」 (つじあやの) 「教訓1」で知られているフォークシンガーの「加川良」が作詞したものに拓郎が曲をつけている。 この曲で僕は「クリント・イーストウッド」を知った。 創作の経緯について、拓郎は「加川良がウチに遊びに来て、彼女に手紙を出したいが恥ずかしくて出せないと言うから、俺が歌にしてやった」とコンサートなどで説明している。 手紙の相手の彼女とは拓郎の最初の妻・四角佳子との説もあるが加川の話では違う。 レコーディングで曲が足らなかった拓郎が切羽詰まって加川に電話してきて「余った曲ないか?」と言うが、自身も精いっぱいで曲はなかった。 しかし加川には「当時の外国の歌にはよくあった手紙の文面にそのままメロディを付けて曲にするというアイデアをやってみたい」という構想があり、書き留めていたものをレコーディングスタジオに持って行くと、拓郎がその場でメロディを付けてささっと仕上げたという。 『元気です。』は大ヒットしたため、作詞者としてクレジットされている加川に多額の印税が入ったと言われている。 また曲のタイトルにも自身の名前が入ったため、人から「あんたがあの歌の人?」と今でもよく言われるという。
●吉田拓郎「親切」
●吉田拓郎「夏休み」
歌詞に出てくる「姉さん先生」とは拓郎の小学校時代の担任の先生を言っているらしい。
●吉田拓郎「馬」 笑えるぞ。 「今日までそして明日からを馬が歌っている」というところが、何故かおかしい。
●吉田拓郎「たどり着いたらいつも雨降り」 鈴木ひろみつがいた「モップス」に提供した名曲中の名曲。 うしろに流れているバンジョーは途中でミスをしていると、ラジオで拓郎が言っていたけれど、僕には分からない。 シンバルを叩く音も聞こえるが、小太鼓とシンバルは拓郎が叩いている。 拓郎がアマチュア時代に作った曲「好きになったよ女の子」の歌詞をかえたものである。 1972年にザ・モップスに提供しヒットしたこともあって、その後も子供ばんど、氷室京介、THE POGO、山崎ハコ、和田アキ子、ダウンタウンウンナンバンドらがカバーしたり、ロック系のバンドによくライブで演奏される。
拓郎の原曲は「たどり着いたらいつも雨ふり」表記だが、モップス版は「たどりついたらいつも雨ふり」で、その後のカバーもこちらの表記が多い。 |
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人生の半分以上を吉田拓郎を聴きながら、体験しながら、ギターを弾きながら、唄いながら生きてきた僕がおすすめする吉田拓郎の名作集です。 ほぼ、時代順です。
この曲の詩が、どこかの国立大学の国語の問題として出題された、と拓郎本人が言っていた。
また、唄いやすい歌で、コード進行も簡単なので、僕も中学1年の頃に、よく歌っていました。
最近バージョン
●吉田拓郎『マークⅡ』
吉田拓郎の実質的なメジャーデビュー曲だ。 デビュー曲という思い入れもあるんだろうね。 でも、まぁ、いい歌です。
●よしだたくろう『雪』 ほとんど、昭和歌謡曲である。 でも、その後の名曲「贈り物」の中の歌詞で「きみが好きだった『雪』は誰かに唄ってもらえばいいさ」と歌っている。 当時の拓郎の恋人の話かもしれない。
それと、吉田拓郎が歌っていた「高円寺」という駅を中央線で通過した時だ。
●吉田拓郎「高円寺」
第3回全日本フォークジャンボリーに出演。 このコンサートに於ける拓郎のパフォーマンスは神話化している。 当初、拓郎の出演予定は無かったが後から出演が決まった。 メインステージとサブステージの分け方や、出演順を巡ってトラブルが繰り返され、拓郎も1日目は3曲しか歌わせてもらえなかった。 このコンサートの模様は二つのレコード会社によってレコーディングされ会場内にテレビが持ち込まれていた。 2日目の夕方、数百人にも満たないサブステージで演奏をはじめた拓郎がこうした商業主義の乱入に対しさかんにアジり、PAの故障によりノーマイク、ノースピーカーで2時間に亘り「人間なんて」の熱唱を続けるうち熱狂した観客が増え、小室等の「メインステージに行こう!」の言葉が引き金となり観客がメインステージになだれ込んだ。 舞台を目がけて花火が打ち込まれ会場は騒然、主催者との討論会となり、そのままコンサートも自然流会してしまった。 観客の暴動を恐れた岡林信康が逃げ帰ってしまったため、主役交代を印象付けることとなった
●吉田拓郎「人間なんて」(1971年)
11月、「人間なんて」の弾き語りヴァージョンを含むアルバム『人間なんて』を発表。 エレックからの最後のリリースとなるこのアルバムは、プロデューサーを拓郎自身が務め、ディレクターに加藤和彦、木田高介、またアレンジャーや参加ミュージシャンに小室等、遠藤賢司、松任谷正隆、林立夫(後にティン・パン・アレーに参加)、小原礼(後にサディスティック・ミカ・バンドに加入)など、この後日本のロック&ポップスの礎を築くことになるミュージシャンを起用した。 収録曲の「花嫁になる君に」は後に黄金コンビと呼ばれることになる作詞家・岡本おさみとの第1作である。
●吉田拓郎「花嫁になる君に」 僕の友人が結婚式でギターを持って、この歌を花嫁に贈っていたけれど、歌詞の内容からして、結婚式に適切なのかどうか・・・・。
上記の「人間なんて」のアルバムに入っている、吉田拓郎らしい大傑作。(初期の吉田拓郎の中では、僕はこの歌が一番好きだ。)
その結果が「結婚しようよ」であり、大ヒットになったのだから、作戦は成功した。
「結婚しようよ」のB面に入っている「ある雨の日の情景」も短い小曲なのだが、佳作だ。
ここまで紹介したアルバムで入手可能な吉田拓郎もアルバム |
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吉田拓郎。 日本のシンガーソングライターの草分け的存在である。 マイナーな存在だったフォークとロックを一気に日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げ、また大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立など、さまざまな新しい道を開拓したパイオニアとして日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である。 「フォークソングの貴公子」とか「和製ボブ・ディラン」等とも呼ばれた。 僕の中学時代は、吉田拓郎、一色だった。 吉田拓郎を最初に知ったのは、中学1年の時に、その時のガールフレンドが僕の隣で「僕の髪が肩まで伸びて~、君と同じになったらぁ~、約束通り、町の教会で結婚しようよ~♪」と鼻歌感じで歌ったのが最初だった。 その後、ラジオの深夜番組はもちろんのこと、テレビでも「結婚しようよ」が流れ始めた。
僕はすぐにお小遣いを持って、村に一軒の電気屋さんに走り、「元気です」という吉田拓郎のアルバムを買った。 この「元気です」というアルバムは僅か1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた。 しかし!! 吉田拓郎はテレビのヒットソング番組への出演を拒否!! その行為そのものが、若者の(僕の)心をつかんだ。 ちなみに、この「結婚しようよ」のバックに流れいてるハモンドオルガンは松任谷正隆(ユーミンの旦那)だ。
●吉田拓郎「人間なんて」(1971年) 吉田拓郎の「元気です」を買って、すっかり「拓郎熱」に浮かされた僕はバスで長岡市内の大きな電気屋さんまでいき、その当時発売されていた吉田拓郎の全てのアルバムを購入。 中学1年生の少年にとって、驚愕したのが、この「人間なんて」だ。 噂によると、吉田拓郎は「中津川フォークジャンボリー」で、この「人間なんて」を延々2時間も歌ったということを「ヤング・フォーク」という雑誌や「ヤング・ギター」という雑誌で知る。 その4年後、静岡県掛川市のつま恋で「吉田拓郎、かぐや姫、オールナイトコンサート」(1975年)に出かけ、生で、「人間なんて」を自分も声を限りに叫んだ。(多分30分ぐらい。) さらに、その4年後の1979年に愛知県の篠島という離れ小島で一晩のコンサートがあり、それにも参加。 帰りの船の音が全て「人間なんてララララララ~♪」と聞こえた。
●吉田拓郎「どうしてこんなに悲しいんだろう」(1971年)
上記の「人間なんて」のアルバムに入っている、吉田拓郎らしい大傑作。(初期の吉田拓郎の中では、僕はこの歌が一番好きだ。)
●吉田拓郎「落陽」
吉田拓郎のコンサートでは今も昔も欠かせないのが、この「落陽」。(どうでもいいのだが、僕が歌える「カラオケ」はこの曲だけだ。)
●吉田拓郎「アジアの片隅で」 吉田拓郎中期の大傑作。
この曲は武道館で初めて聴いたのだけど、鳥肌が立った。
●吉田拓郎「永遠の嘘をついてくれ」 中島みゆきの作詞・作曲によるものだが、まるで拓郎が作ったのかのように見事に「字余り」の曲で、「酔っぱらい」が出てきて、「日本」が出てくる。
最近の曲の中では、僕が最もよく聴いている曲です。(中島みゆきバージョンも含めて)
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