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吉田拓郎。 日本のシンガーソングライターの草分け的存在である。 マイナーな存在だったフォークとロックを一気に日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げ、また大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立など、さまざまな新しい道を開拓したパイオニアとして日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である。 「フォークソングの貴公子」とか「和製ボブ・ディラン」等とも呼ばれた。 僕の中学時代は、吉田拓郎、一色だった。 吉田拓郎を最初に知ったのは、中学1年の時に、その時のガールフレンドが僕の隣で「僕の髪が肩まで伸びて~、君と同じになったらぁ~、約束通り、町の教会で結婚しようよ~♪」と鼻歌感じで歌ったのが最初だった。 その後、ラジオの深夜番組はもちろんのこと、テレビでも「結婚しようよ」が流れ始めた。
僕はすぐにお小遣いを持って、村に一軒の電気屋さんに走り、「元気です」という吉田拓郎のアルバムを買った。 この「元気です」というアルバムは僅か1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた。 しかし!! 吉田拓郎はテレビのヒットソング番組への出演を拒否!! その行為そのものが、若者の(僕の)心をつかんだ。 ちなみに、この「結婚しようよ」のバックに流れいてるハモンドオルガンは松任谷正隆(ユーミンの旦那)だ。
●吉田拓郎「人間なんて」(1971年) 吉田拓郎の「元気です」を買って、すっかり「拓郎熱」に浮かされた僕はバスで長岡市内の大きな電気屋さんまでいき、その当時発売されていた吉田拓郎の全てのアルバムを購入。 中学1年生の少年にとって、驚愕したのが、この「人間なんて」だ。 噂によると、吉田拓郎は「中津川フォークジャンボリー」で、この「人間なんて」を延々2時間も歌ったということを「ヤング・フォーク」という雑誌や「ヤング・ギター」という雑誌で知る。 その4年後、静岡県掛川市のつま恋で「吉田拓郎、かぐや姫、オールナイトコンサート」(1975年)に出かけ、生で、「人間なんて」を自分も声を限りに叫んだ。(多分30分ぐらい。) さらに、その4年後の1979年に愛知県の篠島という離れ小島で一晩のコンサートがあり、それにも参加。 帰りの船の音が全て「人間なんてララララララ~♪」と聞こえた。
●吉田拓郎「どうしてこんなに悲しいんだろう」(1971年)
上記の「人間なんて」のアルバムに入っている、吉田拓郎らしい大傑作。(初期の吉田拓郎の中では、僕はこの歌が一番好きだ。)
●吉田拓郎「落陽」
吉田拓郎のコンサートでは今も昔も欠かせないのが、この「落陽」。(どうでもいいのだが、僕が歌える「カラオケ」はこの曲だけだ。)
●吉田拓郎「アジアの片隅で」 吉田拓郎中期の大傑作。
この曲は武道館で初めて聴いたのだけど、鳥肌が立った。
●吉田拓郎「永遠の嘘をついてくれ」 中島みゆきの作詞・作曲によるものだが、まるで拓郎が作ったのかのように見事に「字余り」の曲で、「酔っぱらい」が出てきて、「日本」が出てくる。
最近の曲の中では、僕が最もよく聴いている曲です。(中島みゆきバージョンも含めて)
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