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●中島みゆき「時代」 オリコンで4つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得した(1970年代:「わかれうた」、1980年代:「悪女」、1990年代:「空と君のあいだに」、「旅人のうた」、2000年代:「地上の星」)唯一のソロ・アーティストでもある。 1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による第9回ポピュラーソング・コンテスト(通称ポプコン、現在のTEENS' MUSIC FESTIVAL)に「傷ついた翼」が入賞。 同年9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)から晴れてレコード・デビューを果たす。 そして、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞。 つづけて11月の第6回世界歌謡祭 でもグランプリを受賞した(「時代」は同年12月にセカンド・シングルとして発売)。 これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される。
1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。 その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。 翌年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。 歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められている。 この作品は後年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲のひとつとなっている。
1989年からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになる。 「夜会」は中島にとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されている。 1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えなかったが、その中において中島みゆきも例に漏れず、「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。 この3枚のいずれもテレビドラマの主題歌として起用された楽曲であり、なかでも安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録した。 1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、現時点での中島にとっての最大級のベストセラーである。 1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めた。現時点でこの審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきただ一人だけである。
2000年には25年に渡って在籍したポニーキャニオンを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーのレコード会社、ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍。
以降現在までヤマハから作品を発表している。
このシングルは主に中島の作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週に渡ってランクインするという驚異的な記録を打ち立てた。 しかし、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『短篇集』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。
このアルバムを発売するにあたっては、ジャケットの仕様をめぐり岩波書店からクレーム(岩波文庫をもじって「山波文庫」=ヤマハ文庫と表記した)がつき、発売直前になって急遽デザインが差し替えられるというハプニングも起こった。 『プロジェクトX』内でもとりあげられた黒部ダム(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌った。 このとき初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52.8%:ビデオリサーチ調べ/関東地区)を記録。 また、極寒の中で極度の緊張から2番の歌詞を間違えたにもかかわらず反響は大きく、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は翌年1月、発売から2年半近くを経てシングルチャートナンバーワンに輝いた。 これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。
同時に、1970年代 - 2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。
歌詞以外はほとんど声を発することなく、スタジオで同番組エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を熱唱した。 その影響で2006年1月16日、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は、2004年2月2日以来のオリコンシングルチャート100位圏内返り咲き(66位)を達成。
通算オリコンシングルチャート100位圏内チャートイン記録を183週に延ばした。
2006年、第56回芸術選奨 文部科学大臣賞を受賞した。 「コンサートツアー2005」が評価されてのこと。
シンガーソングライターとしては初の受賞者。
同年秋には2年ぶりの全国ツアー「コンサートツアー2007」が行われた。 受賞に際して、うれしい気持ちを「棚から本マグロ」と表現した。 中島曰く、「ふつう、何か頂けそうでも辞退する(考える)ところだが、褒章はふつうではないため、すぐに返事をした」という。
●中島みゆき「時代」
「いやはや、とんでもない歌手が出てきたぞ」というのが最初の印象だった。 その後「暗い」というイメージがあった中島みゆきだったが、彼女のオールナイトニッポンでその「落差」に驚いて、ますますファンになった。 「時代」は僕が失恋するたびに聴いた曲。 「時代」を超えて、唄え継がれる歌だ。
●中島みゆき「空と君のあいだに」
この曲で、世間的には中島みゆきが一躍有名になる。 このあたりから中島みゆきの世界が確固たるものになる。
●中島みゆき「地上の星」 そして、中年おじさんの間に一大ムーブメントを起こした名曲。 番組「プロジェクトX」そのものも素晴らしい番組だったが、この曲も歌詞の意味が深く、サラリーマンの心に感動を与えてくれる。
■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
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●バズ「愛と風のように」 小出博志は東海大学在学中に「インディアンアップル」というバンドを結成。
その後高橋信之を中心としたグループ「ステージフライト」に参加した。 『ケンとメリー~愛と風のように~』は、日産スカイラインのCMソングに起用され、オリコンチャート19位まで昇るヒットとなった。
これまた美しい歌声のバズの歌だ。 日産のスカイラインのCMにぴったりとはまった歌だ。 僕もギターを覚え始めた頃に練習した。 この曲で初めてAのコードを覚えた。 愛と風のように生きる。素敵なフレーズだ。
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●ガロ「学生街の喫茶店」 松崎しげるらと「ミルク」という名のバンドを組んでいた堀内と日高に大野が加わり結成。 かまやつひろしのバックバンドを経て、ミッキー・カーチスのプロデュースで、1971年にシングル『たんぽぽ』でデビュー。
同年11月、アルバム『GARO』をリリース。 同年6月、このアルバムから1曲目の『美しすぎて』をA面、3曲目の『学生街の喫茶店』をB面としたシングルがリリースされたが、当初はシングルチャート上位には登場しなかった。 同年12月、サードアルバム『GARO3』をリリースしたが、それと前後して『美しすぎて』のB面『学生街の喫茶店』がラジオや有線放送のリクエストを集めるようになり、1973年2月19日付けのオリコンのシングルチャートで1位に浮上、4月2日付けのチャートまで7週連続1位というヒットとなった。
これによりガロのテレビ等のマスコミ出演回数が飛躍的に増大したが、そのヒット期間中にボーカルの大野が入院、復帰するまで堀内と日高の2人だけでスケジュールをこなす事態が生じた。 さらに同年、シングル曲の『ロマンス』を含むアルバム『GARO4』がリリースされ、翌1974年にはコンセプトアルバム『CIRCUS』がリリースされるが、『学生街の喫茶店』に相当するヒットには至っていない。 アルバム『三叉路』が最後のレギュラーアルバムとなり、1976年に解散する。
●ガロ「学生街の喫茶店」 もともとシングル盤のB面の曲だったが、吉田拓郎が初めてこちらのほうがいいとオールナイトニッポンで流し、そこで火が付く。 無茶苦茶きれいなハーモニーで、僕の母親が「お金を出すから学生街の喫茶店を買ってきて」ということで、僕はこのシングルを母のために買ってやった。 ガロはテレビでもよく出演したのでヒット番組の常連になった。
●ガロ「美しすぎて」 この曲も美しいハーモニーを聞かせてくれるが、やはり「学生街の喫茶店」ほどインパクトのある歌詞じゃないね。
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●早川義夫「サルビアの花」 中学時代、日劇ウエスタンカーニバルで尾藤イサオ(演奏:ジャッキー吉川とブルーコメッツ)のステージを見て、ロックに目覚める。 1965年、高校時代に、同級生2人と「ナイチンゲイル」というバンドを結成。 この頃、メジャーデビュー前のザ・スパイダースを見て、刺激を受けている。 大学進学後、バンド名をジャックスと改め、ライブ活動を始める。 1967年にメンバーが交替し、木田高介、水橋春夫、谷野ひとしの4人編成となる。 デビューアルバムは『ジャックスの世界』。 ジャックスはセカンドアルバム『ジャックスの奇蹟』を残して解散する。
当時商業的に大きな成功を収めることはなかったが、彼らのジャズに影響を受けたオリジナルな音楽性、そして早川の狂気を秘めた歌声と異様で繊細な歌詞は、後に日本のパンク・ロック等のさきがけとして高い評価を受けるようになる。 このアルバムにも収められている彼の曲「サルビアの花」は後に多くのミュージシャンによってカバーされるスタンダード曲となる。 ディレクターとしては岡林信康、加川良らを担当した。 しかし次第に音楽の仕事から離れ、1972年には川崎市内に早川書店を開店した。
1994年に『この世で一番キレイなもの』で復帰するまで23年間音楽活動を停止していた。
これほど多くのミュージシャンに愛された歌は無いだろう。
「なんなんだ?この世界は!」と思った。
●井上陽水の「サルビアの花」
■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
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●中山ラビ「ひらひら」 東京都生まれ。
詩人の中山容が訳詞したボブ・ディランの歌でライブ・デビューし、その後、大きな影響を受けたため、女ボブ・ディランといわれた。
1966年6月のビートルズ来日公演に行く。 また、高田渡、遠藤賢司、南正人らフォーク集団「アゴラ」の一員であったボロ・ディラン(真崎義博)に出会う。
1969年、大学1年の時、第4回関西フォークキャンプ(8月15日〜17日)に自費で参加。
僕が中山ラビを初めて知ったのはNHKのお正月の特別番組で、海援隊等と一緒に出ていた。
相も変わらずの中山ラビの世界だ。
■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
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