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1960年代後半に、遠藤賢司、南正人、金子章平(後に音楽プロデューサーとして活躍)、真崎義博(ボロディラン)らと東京でアマチュアシンガーの集団「アゴラ」として活動。
1960年代末、京都に拠点を移す。高石ともや、岡林信康、中川五郎、早川義夫、加川良、岩井宏らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在となる。 また後に、京都のひがしのひとし、古川豪らと親交を深める。
全日本フォークジャンボリーには第1回から参加。また第2回ではURC関連の出版社にいた加川良をステージ上に引っぱり出し、フォークシンガーとしてデビューさせる (後にステージ上に引っぱり出したのは演出であり、フォークジャンボリーで加川をデビューさせるのは予定されていたことだと加川によって明かされる)。 キングから、大瀧を除くはっぴいえんど(細野晴臣、鈴木茂、松本隆)を従えた『ごあいさつ』をリリース。 この『ごあいさつ』には、高田の代表曲でシングルカットもされ、後に真心ブラザーズがカバーした「自転車にのって」が収録されている。
●高田渡「自衛隊に入ろう」を唄い、観客に衝撃を与える。
冗談のようだが、この「自衛隊に入ろう」を本物の『自衛隊』が広報・隊員募集に使おうとした。 あやうく本採用される前に「自衛隊」を皮肉った歌であることが上の人に伝わり、採用されなかった。(お互いによかったね。)
●詩人三木卓の名作である「系図」をフォークソングにした。(しんみりといい歌だ。) 本当に高田渡も「酒飲み」で、56歳という若さで亡くなった。
「自転車にのって」
●高田渡「生活の柄」
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岡林信康は「フォークの神様」の愛称で知られる。 高石ともやに出会いギターを始める。 この岡林信康の登場で、日本のフォーク界は急激に「反戦」「反体制」につき進む。
同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビュー。 翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」「くそくらえ節」「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。 その内容から、多くの曲が放送禁止となる。 一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、労音との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3ヶ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発。 書き置きは『下痢を治しに行ってきます」。
1970年4月、コンサートに再登場、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した。 この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だった伝説のフォーク・ロックバンド『はっぴいえんど』(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂)をバックに展開し始める。
1971年の日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、表舞台から再び姿を消す。
●岡林信康&『はっぴいえんど』の「私たちの望むものは」
この頃、吉田拓郎は岡林信康にかなりライバル意識を持っていて、「私は狂っている」という歌の中で「岡林信康の歌をどう思う?」と歌ったり、ライブでは「はっぴいえんどほどいい音を出せないミニバンドをひきつれています」等と発言している。
●部落問題を背景にした歌も歌っている。「チューリップのアップリケ」
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ご存じ、森山直太朗のお母さんにして、日本フォークの「ジョーン・バエズ」と呼ばれた女性フォークシンガーの先駆者だ。 平成18年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。平成20年秋紫綬褒章受章。 「かまやつひろし」とは従兄弟関係にある。
澄み切って伸びる高音が美しい。
●反戦歌にして叙情的な「さとうきび畑」
この歌をモチーフにしたテレビ番組「さとうきび畑」(明石家さんま主演)は感動の名作だった。
●「涙そうそう」 BGINとの合作。
この曲は僕が中学2年の音楽の時代にクラス全員で合唱した。 バス遠足の中でも歌ったな。
吉田拓郎作曲、岡本おさみ作詞の名曲。
この森山良子がいなかったら、ユーミンも中島みゆきもいなったかもしれない、というぐらいの存在です。
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1965年、当時大学生の加藤和彦の雑誌「MEN'S CLUB」での呼びかけに応じ、北山修が妹の自転車で加藤を訪ねる。 その後、平沼義男、浪人生の井村幹生、芦田雅喜が加わって5人で結成され、「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトから「ザ・フォーク・クルセイダーズ」と名乗る。 その後、受験勉強のため井村と芦田が脱退、3人組となる。 その後芦田が復帰、再び4人組で活動するが、芦田が2度目の脱退をし、またも三人組になり、関西アンダーグラウンドシーンで活動していた。 1967年の解散を記念して、製作費23万円で[1]自主制作盤のアルバム『ハレンチ』を制作。 300枚しか制作できなかったこのアルバムの中に、自作の「帰って来たヨッパライ」と、アマチュア時代から歌い続けてきた「イムジン河」が含まれていた。 プロデビューに当たっては、平沼らに代わって「はしだのりひこ」が参加する。
解散を記念した作られたこの曲が、ラジオの深夜放送から火がつき、いっきに日本列島を駆け巡る。 僕も小学校からの帰り道に「おらは死んじまったダ~~~♪」とよく歌っていた。 この曲はオリコンで史上初のミリオンヒットになる。
日本レコード大賞の特別賞までもらった。
誰もが知っている青春のほろ苦さをたたえた不朽の名作だ。 僕の高校3年生の時のクラスの応援歌として教室でよく全員で歌った。
●『悲しくてやりきれない』
ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーの「北山修」は今は精神科医になっている。 加藤和彦は自殺をし(2009年10月17日)、衝撃を僕たちに残した。
その他にこのザ・フォーク・クルセダーズからは、「はしだのりひこ」が「はしだのりひことシューベルツ」としてデビューし、『風』を大ヒットさせる。
さらに、はしだは、「はしだのりひことクライマックス」を結成し、『花嫁』をヒットさせる。
このザ・フォーク・クルセダーズの頃から「関西フォーク」という言葉が使われ始めた。
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小室等。 日本のフォーク界の重鎮にして良心。
バンド名は「四谷3丁目で目に付いた居酒屋の名」を採ったと岩沢幸矢が書いている。 その後、別役実の芝居などに楽団「六文銭」として参加。 この時期には歌手・役者など様々なメンバーが出入りしたという。 中川五郎とのカップリングのインディーズアルバム『六文銭/中川五郎』でURCからデビュー。 最盛期:主なメンバーに、及川恒平、四角佳子、原茂、橋本良一がいた。 『キングサーモンのいる島』をベルウッドレコードからリリース。 『サーカスゲーム』や上條恒彦と六文銭が歌った『出発の歌』(たびだちのうた)がヒットした。その1年後に解散。
四角佳子は吉田拓郎の一人目の奥さん。 吉田拓郎が四角佳子と結婚する時に作った歌が「結婚しようよ」。 のちに吉田拓郎、泉谷しげる、井上陽水らと小室等はレコード会社「フォーライフ」を設立し、初代社長になる。 小室等は拓郎とお酒を飲むと、最後はいつも「じゃ、拓郎、なんで戦争はあるんだ!?」と、戦争の話しになると、拓郎がラジオで愚痴っていた。
小室等と六文銭の代表曲。
●「雨が空から降れば」(1971年) シナリオ作家の別役実の詩に小室等が曲をつけた、フォーク史上に残る名作だ。
●上條恒彦と六文銭『出発の歌』(1971年)
●小室等の名作「いま生きているということ」
谷川俊太郎との合作は他にも「お早うの朝」がある。
『俺たちの朝』(松崎しげる)
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