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1965年、当時大学生の加藤和彦の雑誌「MEN'S CLUB」での呼びかけに応じ、北山修が妹の自転車で加藤を訪ねる。 その後、平沼義男、浪人生の井村幹生、芦田雅喜が加わって5人で結成され、「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトから「ザ・フォーク・クルセイダーズ」と名乗る。 その後、受験勉強のため井村と芦田が脱退、3人組となる。 その後芦田が復帰、再び4人組で活動するが、芦田が2度目の脱退をし、またも三人組になり、関西アンダーグラウンドシーンで活動していた。 1967年の解散を記念して、製作費23万円で[1]自主制作盤のアルバム『ハレンチ』を制作。 300枚しか制作できなかったこのアルバムの中に、自作の「帰って来たヨッパライ」と、アマチュア時代から歌い続けてきた「イムジン河」が含まれていた。 プロデビューに当たっては、平沼らに代わって「はしだのりひこ」が参加する。
解散を記念した作られたこの曲が、ラジオの深夜放送から火がつき、いっきに日本列島を駆け巡る。 僕も小学校からの帰り道に「おらは死んじまったダ~~~♪」とよく歌っていた。 この曲はオリコンで史上初のミリオンヒットになる。
日本レコード大賞の特別賞までもらった。
誰もが知っている青春のほろ苦さをたたえた不朽の名作だ。 僕の高校3年生の時のクラスの応援歌として教室でよく全員で歌った。
●『悲しくてやりきれない』
ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーの「北山修」は今は精神科医になっている。 加藤和彦は自殺をし(2009年10月17日)、衝撃を僕たちに残した。
その他にこのザ・フォーク・クルセダーズからは、「はしだのりひこ」が「はしだのりひことシューベルツ」としてデビューし、『風』を大ヒットさせる。
さらに、はしだは、「はしだのりひことクライマックス」を結成し、『花嫁』をヒットさせる。
このザ・フォーク・クルセダーズの頃から「関西フォーク」という言葉が使われ始めた。
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