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●サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」 ハッキリ言って、サザンは「フォークではない」と言われるだろうが、僕にとっては「最後のフォークバンド」という印象だ。 もちろん、そんなジャンルにこだわらずに活躍しているサザンが好きだ。
1975年頃、青山学院大学で活動が始まり、音楽サークル“Better Days”(ベター・デイズ)のメンバーだった桑田を中心に母体となるバンドが結成される。 幾度かのメンバーチェンジの後、1977年にアマチュアバンドのコンクールである「ヤマハEastWest '77」に出場し桑田がベストボーカル賞を獲得。 この頃には青学生ではなかった松田弘・野沢秀行も加わり、メンバーはデビュー時の6人に固まった。 当初は独特かつ奇抜なその音楽性が敬遠され大手の事務所はサザンを敬遠していたが、当時新興事務所であったアミューズの大里洋吉社長(当時)が「フォークソングの時代は終わり、これからはロックの時代が来る」という判断の下でスカウトしたが、メンバーの大里に対する第一印象はあまり良いものではなかったという。 また大森と大里がデビューにむけて着々と準備を進めるなか、焦ったためか桑田がワーナー・パイオニアとレコード契約を結んでしまったというエピソードもあるが、この件は関係者が出向いて話を収めたという。
事務所側はこのデビューに際し、フォークシンガーを中心に「テレビ出演の拒否」をする風潮が強い中あえて音楽番組に積極的に出演させるほか、ドラマ・CM等のタイアップを中心にお茶の間層の取り込みを狙う戦略を取った。
この精神状態の中から生まれたのが2ndシングル「気分しだいで責めないで」であった。
この曲の発表で「本格派の音楽バンド」という評価を受け始めるようになり、その人気を確実なものにした。
桑田曰く「グループ・サウンズのパロディ」であったり、当時人気絶頂であった田原俊彦の声色を意識して歌ったりと起死回生を賭けた開き直りの歌謡曲だった。
この直後桑田と原は結婚を発表し、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』などでも祝福され、結婚式にはファンを呼ぶなど公私共に祝事が続いた。 数回の発売延期を重ねつつも長期間のレコーディングセッションの中で生まれたこの濃密なアルバムには、サザン史上最高のアルバムだという声もある。 佐野元春から声がかかり「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」にも出演した。 同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動もひとつの頂点に達してしまったため一旦活動を休止。 桑田はKUWATA BANDとしての活動の後個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。
1992年7月21日に30thシングル「シュラバ★ラ★バンバ」、31thシングル「涙のキッス」を2枚同時発売し、サザン、そしてオリコン初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。
「涙のキッス」はTBS系ドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌に起用され大ヒット、サザンでは最高記録となる7週連続オリコン首位を獲得するなどサザン初のシングルでのミリオンセラーを突破した。 そんな中1994年には桑田がソロ活動を再開し、サザンの活動は約1年間休止となった。
1999年9月26日・27日、ファンクラブシークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」を行う。 桑田曰く「ファンの空気に触れて刺激を受けた」とのことで、その当時レコーディングしていた曲(桑田ソロ「可愛いミーナ」の元曲など)も方向性がガラッと変わり明るくなったという。 翌2000年1月26日に44thシングル「TSUNAMI」を発売。 この曲は前述のイベントから生まれた曲であり「売れるものを作った」などと桑田自身も語っている。
以降サザンはある程度保守的な方向性へとシフトチェンジしていく。 かねて何度も逃した日本レコード大賞もこの年に獲得した。
今作を機にサザンは長らく続いたセールス低迷から脱け出し、続く45thシングル「HOTEL PACIFIC」もヒットし、夏には桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市の地元住民の署名運動の結果、2日間の野外ライブ『茅ヶ崎ライブ ~あなただけの茅ヶ崎~』を行った。 その前後から桑田らは再びソロ活動を開始。桑田はシングル「波乗りジョニー」「白い恋人達」がそれぞれミリオンセラーを達成した。
2008年、30周年に伴う53thシングル「I AM YOUR SINGER」の発売やライブなどの活動・プロモーションの発表と同時に、2009年以降メンバー個々の自由な発想による音楽活動を展開するべくサザンオールスターズとしての活動を無期限休止にすることも発表した(2006年のTHE 夢人島 Fes.を最後に実質的にサザンとしての活動は行われていなかったものの、この間を活動休止期間と定めていない)。
期限を設けない活動休止は原の出産・KUWATA BANDの活動などがあった1985年 - 1986年(活動休止は1988年夏まで)以来2回目のことである。 桑田自身は『活動休止の理由はより新しいものをつくるための充電期間』としている。 また、『(キラーストリートで)現状でのサザンでできることのほぼすべてをやりつくした』『今のままでも活動を続けようと思えばできるが、それではサザンという看板にぶらさがっているだけで、甘えているだけになってしまう』とも語り、『(サザンの)解散は絶対にない』と断言している。
●サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」 凄い早口で、なんじゃ、コレ? って感じだったな。 でも、軽快なテンポにちょっとエロチックな歌詞が若い僕にも受けたよ。 まさか、30年もつきあうとは思わなかった。 本当を言えば、一発屋かと思った。
この「いとしのエリー」を聴いた時、「このバンド、ここが勝負だな。これがヒットすれば、長続きするだろうな」と思った。 「勝手にシンドバッド」とか一転、スローバラード。 しかし、ファンはついてきた。 この「エロチック」→「バラード」というパターンはその後のサザンオールスターズの戦略になった。
●サザンオールスターズ「真夏の果実」 これまた、今や「夏の歌と言えば?」というアンケートでは必ず上位(大体、一位だ)になるバラード。 「夏はサザン」というイメージを植え付けた名曲だ。
摩訶不思議な言葉と韻を踏んだ歌詞、それにのっかるメロディーというサザンワールド(と言うか、桑田ワールド)の代表曲。 歌われている世界も、人間界と妖怪界を結ぶような魑魅魍魎の世界。 こんな歌、サザン以外に考えられない。
日本ポップス界最大のヒット曲。 夏、海、恋、女・・・日本の歌謡曲でさんざん取り上げれたテーマをどうアレンジしたら、これだけのヒットになるのか? 奇跡的な曲だ。 明石家さんま曰く「好きなのに、泣いたのは何故?・・・・・桑田は天才や。くやしいなぁ」
■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
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